北大路

思えば随分長くアメブロを書いているわけですが、
不思議な事にブログというものが理解できません。
一体、誰に向かって何を私は言いたいのでしょう?
別に
書かなくても良い事ばかりではないかと思います。
個人がメディアというものを手に入れたところで、
何らかの社会的な影響力を持ちたいわけでもなく、
書くことで何かが自己完結するわけでもないので、
無駄と言えばこれほど甚だ無駄なものもないわけで、
ただ
ネット上から消し去る理由も見つからないだけで、
いつの間にか歳月が矢のように過ぎていきました。

記事一覧(16)

喫煙は喫煙者自身にとっても謎の行動である

私は煙草が健康に及ぼす影響は皆無だと考えているが、これについてはひとまず不問としよう。今私が取り上げようとしている議論は、全く別の事柄である。煙草が人体の健康に有害であろうと無害であろうとそれは全く関係無く、煙草を吸うという行為そのものが、実に不可解であるという点に私は着眼するのである。有害であると考えている人であっても、煙草をやめられない。これは一般的にはニコチンによる薬物依存として極めて大括りに片付けられているが、やめられない原因は社会的な問題や行動心理学など複合的に存在し、むしろニコチンに因る処は極めて少ないのではないだろうかと、私は考えている。何故かと言うと、ニコチンは元来、快楽物質でもなければ安息物質でもない。元来は人体に摂取すると不快な物質なのである。意識を変成させるという点についても直接的ではなく間接的作用であり、作用する時間も短い。煙草が無害だと信じている人に至っては、更に不可思議である。美味いから吸っていると主張する人がいるが、この美味い(若しくは旨い)というのはどういう事だろうか?ここで感じている「美味い」は食べ物が美味いというのとは根本的に異質の感覚である。食物を摂取する事は生存を維持する為の必須条件であり、糖分は脳に栄養を与え、塩分は肉体の疲労を回復させる。スパイス等の刺激物はニコチンと似て(丁度子供が辛い物を苦手とするように)拒絶反応を伴う場合もあるが味にバリエーションを与え、様々な健康維持の為の効能も確認されている。その他、ビタミンやミネラルなど、人間の肉体が「良し」とする物を「美味い」と感じるのは自然な事と言えよう。アルコールも適度であれば血液の循環を良くし身体を暖める。酒を美味いというのは、それぞれ種類による風味(フレーバー)の特徴とアルコールによる酩酊感が一体化した結果の、極めて正直な肉体の感想と言える。第一、飲み物には乾きを癒すという最大の美味さがある。そう考えてみると、煙草の煙が「美味い」という感想の正体は、掘り下げて探り出してみると驚くほど空虚だ。そこには、ぽっかりと暗黒の空洞が口を開けている。確かに煙草にも風味はある。発酵させてみたり燻蒸してみたり着香した物がある。しかしながらこれらの煙草が好きな人には自明の理であろう。焼いた肉を喰らうようにはその本質にかじりつけないという事が(しばしば周りの人の方がその香りを堪能しているものなのだ)。ニコチンという呼称の起源となっているフランス人の仕掛け屋、ジャン・ニコは、当初ファッションとして流行らせる事を目論んだ。狙いは的中してヨーロッパ全域に一気に煙草は広まったのだが、ニコ自身にも、そして広められた人々にも、それが何に因るのか、ブームの正体を見極める事が出来なかった。唯一つ言えることは、喫煙という習慣を身につけた者の人生観は、身につける前とは大きく変わる。世界が、目に見える物、感じる物の全てが、別の色彩を放ち出すのである。これは一体、何なのだろうか?

東京都受動喫煙防止条例成立に寄せて

とうとう東京都の受動喫煙防止条例が都議会本会議で可決してしまった。例え自ら煙草を忌み嫌う者であったとしてもだ、このような横暴な条例を良しとしてしまう事が、苟も議会制民主主義を履行する立場である議員達の所業だとは恐れ入った。喫煙に関する事だけではない。理想の社会を作り上げようとする試みは、須く、その社会を構成する全ての人々の理想によって、行われなければならない。私達喫煙者の多くは、煙草の煙を嫌う人々の権利を侵害するつもりは毛頭ない。同じ社会に、共存する事が出来ると考えている。しかし、どうやら非喫煙者の中でも喫煙文化を地球上から抹消しようとしている人達は、喫煙者と共存する事が不可能だと考えているようだ。なぜなら、煙草は有毒であり、喫煙者本人ばかりか、その煙は大気を汚染し、喫煙者以外の人々の健康をも脅かすと信じられているからだ。しかしこれには、充分な科学的根拠がない。受動吸引という範囲で言うなら、煙草の煙は大気中の他の物質に比べて極めて希薄で、同室に居る者の健康を著しく害する程の威力は無い。よく風邪をひいている喫煙者の吐く煙は、ウィルスを運ぶと言われる事があるが、ウィルスは煙と一緒に運ばれはしない。道理で考えて、受動喫煙というモノは存在しないのである。投票によって公正に選ばれた議員が、皆の理想の社会を実現する為に頭を使い、行動する。その理想の社会が、皆が健康で、快適に生活できる社会である事には、異論の余地がない。では、煙草の煙はその社会の実現を阻害するだろうか? それを論証し、明解に提示する事をしないで、ただ、「煙草は毒だ。その煙も毒であり、僅かでも吸引すれば病気になる」と多くの人が信じ、偉い学者が言っているから、というだけの理由、更に言うなら、日本は世界に遅れをとっている。先進国各国の主要都市は、全て煙草が吸えなくなっている。というだけの理由で、充分な論証になっているというのだろうか?皆が健康で、快適に生活できる社会。東京から煙草が消えることは、それに貢献するだろうか?私にはそうは思えない。何故なら、喫煙は人間の大切な情緒を担っているからだ。それを物語っているのは、古いジャズ喫茶だったり、寡黙なマスターのバーだったり、東京という生き物が、戦後を生き抜いて蘇生し、息づいて来たその身体そのものである。都市の、街の、カラダそのものである。そこに居た大勢の人々の姿である。その街の、染み付いた歴史を鑑みず、何が理想の社会だろうか?2018.6.27

C&D エピファニー

今回紹介する煙草はコーネルディールのエピファニー。エピファニーとは、しばしば「閃き」という意味にも使われる言葉で、キリスト教の公現祭(1月6日)を表す。この日は、クリスマスから数えて丁度12日目にあたり、お祭り気分の年末と正月が過ぎて、日常に戻る入り口の日でもある。文学上の用法では、平凡な出来事の中にその事柄・人物などの本質が姿を現す瞬間を象徴的に描写することも意味するらしい。転じて「常喫」という意味だと解釈したが、些か曲解であろうか。 フロッグ・モートンが手に入れられなくなったせいもあるが、最近また好みの煙草を模索しつつある。そうでなくても、一つの銘柄にそれほど執着しない方なので、色々と食指が動いてしまう性格なのだが、私の中で永遠のテーマになっている煙草のブレンドにおける理念と言うか至高概念というか、ある種の幻想的な物語が存在する。それは…「ラタキアを巧く使った着香煙草」である。 バルカン、所謂50%のラタキアを含んだブレンドには、あまり風情を感じない。すぐに飽きてしまい、ダンヒルのダーバーなどは一年近く50グラム缶が減らず、カラカラに乾燥したものを2度ほど加湿して、やっとこさっとこ空にした。パウチものでは、ラールセンのトゥルー・デライトあたりが安くて良いのだが、これはこれで今度はラタキアが物足りない。ガレリアのフォックス・アンド・ハウンドはそこそこに嵌って何度も買って吸っていたのだが、結局、ラタキア慣れしてしまうと、何だか着香の方が味気ない。実はパウチもので一番嵌ったのがフォン・エイケンのプライベート・クラブなのだが、現在は製造していないようで、入手できなくなってしまった。ラタキアは多すぎず、少なすぎず、フレーバーを中心に楽しみながらアクセントとして使っている。そんな煙草が私の理想である。そういう意味で、フロッグ・モートンは至高だったのである。割合の分量で言えば、オンザバイユーやアクロスザポンドでは多過ぎ、オンザタウンでは少な過ぎた。セラーに至っては着香が強すぎてラタキアが死んでいる。レギュラーのフロッグ・モートンは絶妙なバランスだったと言って良い。ラタキアが活き活きと前に出ているのに、スムースで飽きが来ない。 今は亡き煙草の話をしても詮方無いので、このエピファニーに話を戻そう。開缶したのは町田の駅近くにある「宮越屋珈琲店」。ちょっと雰囲気のある良いお店だ。2階の窓際は広い喫煙席で、テーブルも大きく、ゆったりとしている。ここのフレンチ・ブレンドは私の知る限り町田界隈では1番美味しい珈琲である。チョコレート・ブラウニーを食べながら、午後のひと時をゆっくりと過ごす。

2018メシャムパイプオフ会ご報告